保科正之 二代将軍秀忠ただ一人のご落胤
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- Опубликовано: 18 окт 2024
- 保科正之 二代将軍秀忠ただ一人のご落胤
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脚本・監修:歴史の細道
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ナレーションされてる方、良いですね。
素晴らしい題材と落ち着くBGMも相まって聞き入ってしまいました。
幕末の会津藩がなぜ幕府側で戦ったのか、良く分かりました。とても良い動画だと思います!
)きええ暖房できましたもさウィンター
クリスマスケーキ)
ほ
15代将軍?となった一橋慶喜とは雲泥の差ですね。そもそも慶喜は本当に徳川の家系なのかが疑問である。
重臣達は「火中の栗を拾う事になる」と反対したのですが容保公が京都守護職受けちゃった。
@@pontarou01 しょうがないだろね.
徳川の血を受け継いでるわけだし
会津藩が幕府側だった理由は。。。そういう謂れがあったんですね―――奢ることなく、家臣に徹底した義弟を、家光公が心底信頼していたのかと思うと、感慨深いものが有ります。幕末には、かえって皮肉な運命ともなりましたが。。。保科正之の人となりが分かって、良かったです。今回も面白かったです。勉強になりました🙋
高遠の人達が、NHKの大河ドラマに「保科正之」を扱うように嘆願していましたが、この動画を見る限り、ドラマの主人公になり得る人物ですね。
woody 2018 さん
激しく同意。
家光から優遇されたのは
何もこの人だけじゃないし、
男色の話も絡んでくると思うから
海外ドラマみたいにしたら行けるかもな。
不安な少年時代、松平を許されるも義父を慕って保科の名を生涯通す、優しい兄ふたりの争いに心を痛め、土井や春日局に薫陶を受け、稲葉阿部知恵伊豆という仲間に支えられて邁進する・・・ってかんじでしょうか
実際行ってみると高遠の人達が会津よりその点では積極的な事に結構驚きました。
保科正之を大々的に大河ドラマで放映すると、幕末の薩摩や長州、土佐を舞台にした過去の大河ドラマ(例:竜馬がゆく、花神、翔ぶが如く、篤姫、龍馬伝)の存在意義が失われるので、取り上げないないだけだと思います。
すごく勉強になります。有意義な動画ありがとうございました。
私の人生の中でも、謎に満ちた部分が今回の動画で解明できました、有り難う御座います☀️🙋♂️❗私の生まれた場所は現在の東京都港区東麻布一丁目、桜田通り沿いの元松平家の跡地でした、幕末から明治維新の頃にはシーボルトが住んでいました、その数百メートル離れた場所には会津藩の保科家の江戸上屋敷が鎮座しており、小学校の頃に通った街の剣道道場では、毎年、五月の連休明けには、東北道が開通する前から、福島県の飯盛山や、鶴ケ城で、白虎隊の演舞を舞に行き、戊辰戦争の流れを知り得ましたが、保科家の会津までの入城の話は詳しくなかったので今回は凄く勉強になりました、有り難う御座います☀️🙋♂️❗
保科正之は波乱万丈の生涯でしたした。4代家綱の後見や江戸城下の整備、玉川上水の整備、明暦の大火で焼けた江戸城の再建、今で言うライフラインの構築等現在の東京の礎を築いたにも拘らずそれらの資料は残さず消え去った大人物を知り、教科書に載せても良い歴史上特筆すべき人物で知りました。
家光公は、よっぽど嬉しかったのですね。
愚痴や相談を言える、出来る相手が見つかって。
その家光公の悩みの種であった忠長卿にも可愛がられていたようですね。
@@Kebe230
家光より先に忠長が正之と面会して
家光を激怒させてますね
@@Kebe230 家康公の遺品をもらうぐらいですものね。
家光にも忠長にも可愛がられたので2人の兄の間の問題には心を痛めたでしょうね…
賢くて長幼もわきまえてたので可愛かったでしょう。加えて2人からすると自分らは正室の子だけど正之は違ったのも素直に可愛がれた理由でしょうね。
@@今西治 家光と忠長の母(お江)が、ああいう嫉妬深くて、プライドの高い女性ですから...
そういうお江も、目の前で父親(柴田勝家)と母親(お市)の死を見届け、後に保護者となった秀吉の命で3度も結婚するという、ある種「かわいそうな」女性なのですが。
こういう歴史に基づいた動画大好きです。とても丁寧に作られてありますね。
昔の人達の懐の広さ、寛容さは、聞いていて、気持ち良いものですねぇ⁉️
色んな時代の物語を楽しみにしています。😄
あなたの動画は歴史大好きな私に取ってはたいへんな財産に成ります。ありがとうございます🙇今後共楽しみにして参りますので宜しくお願い致します🙏
永い間朝敵とされた会津藩から、昭和天皇の弟君へ妃を迎えられた時、会津の方々がとても喜んだ…と何かの記事で読んだ事があります。歴史の流れを身近に感じました!
家光公言=「兄より優れた弟はいない」→忠長
家光内心=「庶弟(保科正之)より優れた実弟はいない」→忠長
家光本音=「兄より優れた弟はいる」→保科正之
家光が家綱の後見を正之を頼んだ心情はこんなもんだったんだろうな
なるほど会津藩の成り立ちはそう言うものだったのですね
とても勉強になりました
何代にも渡って忠誠を誓い実行できる保科家および会津藩は凄い、現在でも遺産相続などで親族同士でさえ啀み合う人社会にあって素晴らしいことですね。
水戸徳川は幕府の足を引っ張ったからな。
大畑覚 豊臣秀吉
@@山口芳江-u9b 恐れ多いお言葉に平身低頭に御座いまする。m(_ _)m
保科正之と上杉鷹山は、藩主中の藩主と評価しています(江戸時代の儒教政治の権化)
知らないことがおおかったです。保科正之は知っていましたが・・・。そして、秀忠が一度だけ浮気をしたことも知っていましたが。
子どもが保科正之だったのですね。
ためになりました。有難うございます。
二回浮気してます
松平容保の幕府への忠誠心の元がこういう事かと学びました、武士としてほんと立派だと思う!!
ただ、この縛りが会津戦争での悲惨さをも招くことにも繋がりましたね。
普通なら正妻の子が手を組んで妾の子を苛め抜くというのが世界史のデフォなのに
正妻の子同士が後継者を争い、そのとばっちりで真っ先に消されるのが妾の子っていうのも世界史のデフォなのに
しかし正妻の子から息子の将来を妾の子が託され、それを完遂するなんてのは世界史でも聞いたことがない。
そしてそこにかつての豪族たる武田家の思惑も絡んでいると言うのも面白い。
@@masun-tc9lm 実際、会津松平家の家臣は旧武田家臣の末裔が多いです。西郷頼母、田中土佐、井深宅右衛門が有名ですね。
@@toyo-rex4899 やはりそうですか!歴史は面白いものですね
徳川秀忠という人は、大政治家ではないけれど、「自己の意思」と「自己の責務」を、きちんと分けて考慮しえた世界で最初の政治家かもしれませんね。
@@masun-tc9lm ほっ本当っすか!?
保科正之本当に名君
不思議なもので正之について勉強していくとどんどん家光が好きになる
家光も忠長もこの弟には何かと目をかけてくれてたんだよね。
お互いに反目しあってた家光と忠長だけど、本当は仲の良い兄弟が欲しかったのかもしれない。母親の罪は重いと思うわ。
忠長も家康の遺品を上げたそうですし松平を名乗れるようにとりはからってやろうもしたそうですね。
家光・忠長兄弟の母は、織田信長の姪であり、秀吉の養女分として秀忠に嫁いでいるのだから、「プライド」が高すぎたんでしょうね。あの「春日局」に対しても、「伯父を死に追いやった者の娘」としか見ていなかったみたいですし。
大河ドラマの第一候補なんだよな。
保科正之。
その話題で、お茶の時間が盛り上がったことがあります。
とても勉強になりました。
ありがとうございました。
奥羽越列藩同盟まで直接影響与えるしこの人はすんげえ
久し振りに触れて楽しく見ましたありがとうございました。
熱い話やのー感動しました。
さおりちゃんいつも勉強になります^^ ありがとうございます!!^^
勉強させて頂きました。ありがとうございました。
家光は、ひとを観る目があり、水戸藩主に兄をさしおいて光圀を選びました。保科正之は、兄弟としての親近感だけでなくその高い能力を見抜いていたために引き立てたのではないか?
光圀を水戸徳川の世継ぎに決めたのは父君の頼房。光圀の兄頼重が生まれた時、まだ頼房の兄の尾張義直、紀伊頼宣にまだ嫡男がいなかったが為に頼重を水戸徳川の世継ぎと認めなかった。幕府には届けを出さずに頼重を隠匿、場合によっては始末せよと命じていたらしい。
しかし、頼重の血筋から「烈公」こと斉昭や、最後の将軍慶喜が生まれていて、幕末の高須四兄弟、現在の徳川宗家も頼重の血筋。
あの時、頼重がもし始末されていたら今の日本はどうなっていたことか。
保科正之の数々の業績についても触れてほしかった。多摩川の水を引いて江戸庶民の生活用水を確保したり、大火災のあと道路を広げたり、瓦礫を使って埋め立てをして庶民の住む土地をつくったり・・・テレビ番組の受け売りだけどね。
これを大々的に大河ドラマ等で放映すると、幕末の薩摩や長州、土佐を舞台にした大河ドラマ(例:竜馬がゆく、花神、翔ぶが如く、篤姫、龍馬伝)の存在意義が失われるので、大々的に宣伝しないだけだと思います。
保科正之は明暦の大火のおり、素早く対応をしています。
城の備蓄米を焼け出された人々に与えたり、道路の幅を広く作り直したり、(上野広小路など)費用がかかりすぎるという理由で江戸城の天守閣の再建をしなかったり、災害対策を行っています。
保科正之の言葉が松平容保の行動を縛ったともいえるけど、容保が天寿を全うできたのもまた、保科正之の教えを守ったからこそとも思える。何というか、面白い歴史だよなぁと。
容保の「会津家訓」に拘った行動は一見美談のように言われるが、幕末と言う緊急事態において、「会津家訓」という理想に拘りすぎて、落としどころを誤り、多くの家臣や領民を死に追いやった虐殺者ともいえる。
@@donboy0581
そして領民は藩を信用しなくなっていた。戦ったのは武士だけだった。
会津戦争は悲惨でしたが、会津の貴重な観光資源になっています
この人がいなければ今の東京が無いと言っても過言では無いらしい!(専門家曰く)この人がいたから今の世で東京オリンピックを開催できるんだって!
まとまった、良い動画でした。知らないことばかりで、参考になりました
「誰かの為に命を張る」、こういう古いと思われがちな価値観こそ今の世の中には大切な要素だと思います。
幕末には、会津藩は苦労しましたからね。UP感謝!
江戸時代で一番好きな人物です。
正之さんは子供の頃、しっかり育てられた。そう感じた。
養父がちゃんとした人物だったからね
陰謀渦巻く徳川大奥よりも、育つ環境が良かったように思う。
養父の保科正光、本当に誠実な人だったみたいです。家康が武田家滅亡に伴い旧武田遺臣を取り込んでから30年以上が経過すると、武田信玄の娘である見性院のもとを訪れる旧武田遺臣がほとんどいなくなる中で、保科正光だけは30年以上にわたり定期的に訪れて安否を確認していたらしいです。だからこそ、秀忠は幸松の養育先に忠儀心の篤い保科正光を選んだのだと思います。
しかも正光は、それまで養子にしていた27歳下の異母弟・保科正貞を廃嫡した上で、将軍のご落胤たる幸松を引き取っているのですから、覚悟の上の養育だったのでしょう。(保科正貞は後に上総飯野藩17000石の大名になります。さらに保科正之から、自身が所有していた保科家代々伝来の文物の返還を受けています。)
江戸を斬るの第一部は架空の人物として保科正之の双子の弟梓右近が主人公ですが
竹脇無我さんが正之と右近の2役を演じてました
右近は兄でもある家光から大権を与えられて由井正雪など幕府転覆を企てる連中と戦います
家光は徳川家の内部分裂を一番恐れていたのだと思います。
だからこそ、保科正之を将軍家と同等のように位置づけ、臨終の際には自ら家綱の後見人になるよう頼んだ。
正之も家光の意図を理解していたからこそ、自ら将軍の座に就くことはなかった。
私はそう考えます。
正之がクーデターを起こしていたら、江戸幕府は長く続かなかったかもしれません。
下手したら、家光が亡くなった時点で、正之が「俺が四代将軍だ!」と謀反を起こしていたかもしれませんね。まあ、史実の正之はそんな気性の荒い性格ではなかったし、そんな性格ならば家光の死去の時点で、会津23万石の大名にはなっていないでしょうから。
家光との兄弟愛が泣ける…
一方で家光と忠長との兄弟仲は最悪だったな
@@もふもふ-x4pさん
そして正之は忠長とも仲が良かったらしいですね。
優しいお兄ちゃん二人の仲が良くないことに心を痛めたかもです。
幕末期の松平家は、保科正之の直系では、無かったはず(松平定信とか、養子入りしてるから)
家光は母から愛されなかったが、父から全く相手にされずよそに出されていた新たな弟の存在を知って驚いただろう
@@Kマサヒロ-w6l 松平定信が養子入りしたのは白河藩主家(久松松平家)で、徳川家康の異父弟の家。会津松平家ではありません。
まあ、会津松平家が養子のため水戸徳川家の血統になってしまったのは事実ですが。
会津若松で暮らした経験から馴染み深い話題でした。
会津若松の街の中にあるお城は春は桜が美しく夜のライトアップは格別。
大河ドラマ見てるだけでも勉強になるんだな。葵徳川三代と八重の桜で知ってた。
皆様、青森市浪岡から、おばんです。心清らかな人ですね。私もかく有りたい👍
素晴らしい名君だったとか
松下雅訓 これほどまでにすごい御仁は珍しい
白虎隊の生き残り、会津藩士の子孫です。ありがとうございます。
みなもと太郎の漫画
風雲児たちの愛読者にとっては
たまらない存在です
風雲児たちや葵徳川三代では
秀忠との対面がかなった設定になっていましたが
脚色なんですかね
司馬遼太郎が、秀忠が人生一度の過ち(浮気)を犯さなければ、会津藩は生まれなかったと言っています。そして、幕末の歴史も変わっていたであろうことを考えるとこれほど重要な浮気はなかった事になりますね。歴史は面白い。
会津の大内宿には”高遠そば”という一本ネギを箸の代わりして食べるお蕎麦があります。
これは会津に赴任した正之公が「ここは高遠と似た気候だから蕎麦を作ろう」と発案したのが始まりです。
(ただし、ネギ一本使う部分は正之公とは何の関係もなし。 従来は大根おろしを入れたのを高遠そばと言いますw)
大内宿の高遠そば、むちゃ美味かったです。以仁王でも有名
さらに正之は、ほとんど家光の仕事とされている大半を、自分自ら泥をかぶり造り上げた実績を、すべて消して将軍家の実績とするべく、自分でやった書物をすべて灰にした。そして、正之は、ソバが好きなのでそば職人を全員連れて行った。いや、ついて行ったのかも知れない。だから高遠には高遠ソバが無いので、何年か前に会津に教わりに行った。ちなみに、「小原しょうすけさん、なんでしんしょうつーぶした」と言う歌は、高遠の小原と言う地名のしょうすけさんだそうです。
小原庄助さんって高遠の人だったとは?
保科正之が主人公の話を大河ドラマや2時間ドラマで見てみたいけど、彼の生きた時代は
徳川三代や大奥あたりの人気が高すぎて中々選ばれないのがもどかしい。
まさに、武士の忠なり、を感じる歴史。これが、日本の意識の伝統なのでしょうね。
大河ドラマ、やってくれないかなぁ~~。
教科書に取り上げてくれても良い人物であり、道徳の時間にも教えてあげて欲しいです。
時の流れがあまり速くない時代ですから、
「大河ドラマ」に仕立てても、視聴率が取れるかどうか...
会津藩の実直さは「会津家訓」からのものなのですね。会津藩がなかったら、日本民族を信用できていただろうか?と言った人がいましたが… 司馬さんだったかな?
しかしそれに拘り過ぎたがゆえに、幕末という緊急事態において落とし所を見失って、家臣や領民の不必要な血が流される結果になったのも事実だ。藩の成り立ちや背景において違いはあるにせよ御三家にありながら、いち早く新政府への恭順を示し、不必要な流血を避けた尾張徳川家の柔軟さとは正反対の頑迷ぶりだ。
この保科正之の会津藩から「新撰組」が生まれたと知った瞬間から私の「歴史好き」の人生が始まったんですよね。
同時に「関ヶ原」で一番グダグダだった「薩摩・長州・土佐」が倒幕運動の中心だった事も含めて。
「歴史って繋がってるんだ!」っていう感動ね。
40年以上前の小学生の頃に何かのドラマで保科様は名君、と聞いていた。
その後に家光の異母弟と知ったり、幕末の戦いくらいしか知識がなかった。
何年前だ?とあるコミックで忍法帖の最終回で保科の苗字見てから調べ尽くした。
歴史って良いな。
お江は見性院に幸松の引き渡しを要求するが、対する見性院は『この子(幸松)は将軍の子として預かったのではない、この見性院の子とする為に貰受けたのです❗️』と宣い頑として要求を拒んだらしいです。(^_^)
『信長の姪』VS『信玄の娘』…
見ごたえある闘いですね❗
神君伊賀越えで夫は死に、幼い息子が継いだが領地は徳川の事実上の領地となり、肝心の息子も病死した。・・・そこにまさかの徳川将軍の隠し子が養子として未亡人のところに持ち込まれる展開に。
保科正之は、会津の名君であり、且つ揺るぐことなき信濃高遠の名君でもあります。
信濃高遠と言えば、武田時代は武田信玄の五男の仁科五郎盛信が納めていた所でした。そして、同腹の妹が松姫でした。この松姫が晩年まだ幼かった幸丸と呼ばれていた時代の保科正之を八王子で一時期育てていました。
@@小野澤親 御高説、かたじけなく存じます。🙏☺️
なるほど勉強になりましたm(__)m
大河ドラマでも面白いと思います😊
ゆきまつではなくこうまつ。幸いを松(待つ)by葵徳川三代
どっちでも良いと思いますよ。
第一、文書等の歴史資料に書かれている人名は
読み方が「不明」な場合が結構ありますから。
大河ドラマの「春日局」では、秀忠が「ゆきまつ、と名付けよ」と
土井利勝に命じているシーンがあります。
会津6代藩主と7代以降の会津藩主はまた血縁が違う。
保科松平家は6代目が最後の男系当主で3代と6代の女系が笹原家(元会津藩士600石)へ嫁ぎ津軽で居住した。
明治期になり北海道へ渡り昭和10年代まで海運業を営んだという。
王家が出てくるファンタジー小説なら敵にならない有能な王弟キャラ
千葉真一さんの影の軍団Iでは山村聰さんが演じられていて
千葉さん演じる服部半蔵率いる影の軍団は保科正之の命で幕府に仇なすものを排除します。
正直言って現実には無いですが、もし副将軍を称する事が許されたとしたら土津公の他にはないでしょう。幸松時代は素性を秘匿されましたから市井に交わって養育される機会もあったでしょう、一方でお江与の方からは命を狙われる立場でもあったので、隠密系の配下は秀忠から宿老達を介して幼少期から配備されてたかもしれません。保科相続のときの幕府から付けられた家臣団が黒鍬組と言うのが何ともそれらしい。庶民感情に明るく、助角八をお供に諸國漫遊しお銀や弥七や飛猿を使って悪事を露顕させ悪人を糾すそんな姿は保科正之に近く、感情の起伏が激しくプライドも高くて刃傷も起こす実際の光圀は遠い感じがします。
徳川秀忠公最大の偉業がこの保科正之公を誕生させた事ですね
秀忠の落胤は、保科正之だけでなく、秀忠長男長丸も庶子。
この方は、ただ単に将軍家、幕府に対しての忠義だけではなく今でいう福祉政策の方も行われている方のようです。
正之公の逸話で自分が隠居する時に自分の事績を書いた資料を燃やしたそうです、驚いた家人が理由を聞いたときこの紙は今になっては不要のものと言ったそうです、それに燃やしたおかげで四代目家綱公の事績にされたそうです、すっごい
二代将軍・秀忠の正室・お江与(お江)があれほど嫉妬深くなかったならば、正之は「会津徳川家」の家祖となり、彼の子孫が八代将軍になっていたかもしれない。
いずれにせよ、豊臣秀長と並ぶ、日本史上屈指のナンバー2である。
「以て六尺之孤を託すべし」(論語、泰伯)の故事は、保科正之の為にあるようなものだ。
※「以て六尺之孤を託すべし」(もってりくせきのこをたくすべし)とは、孔子が弟子の曾子から「真の君子とは、どのような人物を云うのでしょうか?」との問いに対して、「君主が臨終に際し、自分の幼い遺児を託すに足る人物を云う」と答えた故事による。
なお、中国・周代の六尺(りくせき)とは、現代の尺貫で約130cm。転じて未成年、元服前の子どもを指し、孤とは孤児のことをいう。
御三家が四天王とかそんな呼び方になっていたかもね。
会津藩自体、事実上の石高は水戸藩より上だったみたいですし。
@@骨助-c1s 会津藩は表高23万石。南会津については会津藩が実質管理するものの、表面上は「幕府からの預かり地」として扱われ、表高に含まれていません。
一方、水戸藩は表高25万石でありましたが、実高はそれより少ないという珍しい藩。しかも当主はほぼ江戸住まい。数年に一度は入国するものの、領地の管理運営は国家老に任せっきりでした。それによって藩の運営に経費が掛かり、「大日本史」の編纂もあって藩財政は常に「火の車」でした。
会津藩は御三家に次ぐ家柄とされてました。
明治維新の戊辰戦争で、会津に徳川幕府を作る計画だったそうです。
少なくとも、治世に向かい
秀忠の子は優秀よなぁ、、、
保科正之は穴山梅雪の妻(見性院 信玄の娘)が引き取ったんだから武田家を継げば良かったんだよ。家柄的にも全く問題ないと思う。
武田空 それは見性院も考えてたようですね。幸松の端午の節句には三つ葉葵と武田菱の並んだノボリを飾ったそうですから
去年高遠城址に行った
本音は仁科盛信の最後の場所を見たくて行ったのだがやはり保科正之の方が人気あるみたいでした
でも行って良かったです
正之はただ一人のご落胤ではありませんよ?
秀忠は家光が生まれる前に、京娘との間に長丸と言う男子が居ます
ただ生後三か月ぐらいで夭折していますが
「風雲児たち」(みなもと太郎)を、お読みなさい。(数年前には、「蘭学事始」もNHKでドラマ化してます)笑 40年以上、関ヶ原から書かれています。今やっと、幕末期、勝海舟や島津斉彬達が出てる
血筋の因縁を知る事が これ程恐ろしいとは…歴史を知る事が後々の悲劇にもなりかねない。
見識が広まりました.
千葉真一氏の影の軍団で保科正之公を認識しました。TVなので史実と違いますが山村総さんは保科正之か柳生宗矩ですね!幕末の会津スピリットはぶれない武士道!そりゃー新選組はついていくでしょう!
幸松の読み方は諸説ありますが、再会を願い「子を待つ」にかけたのではないかとふと思ってしまいました。
大河ドラマ葵 徳川三代で家光が腹違いの弟の保科正之を、こよなく愛し信頼する場面があったのが印象的でした。
大河からこの動画にたどり着きました、良い話です( ノ;_ _)ノ( ノ;_ _)ノ
会津藩は、秀忠さん直系の最後の「男系男子」の家だったようですね。人間的にも出来た方だったのかもしれないなあ。
文政5年(1822年)に第7代当主の松平容衆が死去したことにより、
秀忠の男系男子は完全に断絶しました。
この話しは面白かった。
王様の御落胤で義理の母が没落貴族のお姫様で新しい王様の右腕でその後継の後見人とかどんなラノベだよ
できれば負の面の紹介もあった方が良いような。
一揆勢への対応とか側室同士の争いで娘が毒殺される(しかも間違い)悲劇とか。良い面と悪い面の両方知ることでその人物への知識に深みが出ると考えます。
「側室同士の争いで娘が毒殺される」とは、米沢藩主・上杉綱勝正室の媛姫の事ですね。子供がいないまま(実母によって誤って)毒殺され、夫の綱勝も男子がいないまま27歳で急死。本来ならお家断絶=改易になるところを、保科正之の計らいで、綱勝の妹の子(数えで2歳)が跡目を相続しました。ただ、30万石の石高は半減(15万石)されたので、その後の米沢藩の財政は火の車でした。
私の父方も母方も米沢市出身ですので、このことは良く知っています。
@@toyo-rex4899 会津松平家の家訓には女性の言うことは的なものがあったそうですが、この事件がきっかけとか言われてますな
@@今西治 「婦人女子の言、一切聞くべからず。」ですね。
会津戦争で銃撃戦に参加した山本(のちに新島)八重は、髪を断ち鳥羽伏見の戦いで戦死した弟・三郎の軍服を着て「男」として活動していますね。これも会津家訓を踏まえての行動だったのでしょう。
水戸が徳川御三家と言われたのは家光の頃からでしたね。将軍家は別格でそれ以外の徳川性を名乗る御三家。家光と水戸頼房とは2~3歳しか年齢が離れていなかったらしく、尾張・紀伊は、うるさい叔父さん的存在だったため話相手として良かったのだろう。保科正之は弟で政治に関与していたが、頼房は親戚だけど尾張・紀伊と違い参勤交代が無く、江戸定府。でも将軍にはなれない家系。
正之が転封によってもたらした文化として蕎麦の文化を定着させています。
今の山形はラーメンが有名ですが、蕎麦の文化もあります。
そして会津に転封した際も、蕎麦の文化を定着させたどころか、会津に「高遠そば」の風習が残っています。
あの世で武田信玄も徳川家康も鼻高々だよ。
家康は最初は信玄と「敵対」していたけど、
のちに武田遺臣の大半を取り込むし(その一人が正之の養父・保科正光)、
自分の五男を見性院の養子にして「武田」の名跡を継がせ
「武田信吉」と名乗らせています。
長丸はご落胤にならないのですか?
上杉景勝と保科正之は互いに上座を譲り合ったって言う逸話があるらしいですね。
景勝の方が官位は上だったけど、正之は将軍の血筋だからお互い引かなかったみたいです。
会津で暮らす方々は、現在でも保科正之の教えを実践してる方々がいます。同じ福島県人でも気風が違う、お互いが打ち解けるのに大部年月を要する 1度信頼を得ると尽くして貰える 文武両道の精神が残ってます・白虎隊の末裔にTV解説者の池上彰氏 SONYの創業者 故 井深大氏がいます。生まれ育った福島県郡山市を家族で離れて冬 温かい世界自然遺産の離島で暮らすオヤジ、会津の友人からは、冬の名物 会津のアンポ柿を贈られてくる、有難いことだ。
保科正之の肖像画は残っても、徳川忠長の肖像画は残ってない。
違和感を感じてたけど、家光の忠長への態度を見ればなるほどですね。
保科正之の誠実さと優しさのルーツはおそらく父方の祖母様です。
お愛の方の血だと思います。家康が愛した女は、この西郷の局と阿茶の局だけだと思います。
保科正之は本来将軍となるべき遺伝子を持った方だったと思います。
色々違う気がする、最初の子供は2歳で亡くなられたと大河ドラマの江 では秀忠の台詞ありました。そのあとのお子様ではないのでしょうか?どちらかがフィクションですよね。そして幸松ゆきまつ ではなくその中ではこうまつと呼ばれてたのではないでしょうか?
次はこの辺り人を希望 (  ̄▽ ̄)ノ
>松平忠長。
良くも悪くも、この兄弟に多大な影響を与えた存在。
多大な迷惑と、反面教師として2人の関係性を破綻させない戒めとして存在した。
>松平容保。
先進性もあり、先見性も高かった彼でも【先祖の教え】には勝てなかった。
先祖にしてみれば、あんな【想定外な事態】は仕方ない…。
けど、彼の【その先】は本当に残念だった。
>松平容保
司馬遼太郎の影響で沈みゆく徳川にあくまで忠誠を尽くしたという美談が先行しているが、江戸城開城という忠誠を尽くすべき幕府がすでにないという状態でおいても「会津家訓」の理想に拘り過ぎて、落としどころを誤り、多くの家臣や領民を死に追いやったという容保の責任が追及されていない事に疑問を感じる。
織田信忠の婚約者の松姫が、一時預かっているんですよね。
もう一人、庇護者が、いたような。
ユキマツではなくコウマツだった気がします
片倉小十郎さんの息子でしたっけ?重長さんについて作成よろしくお願いします!
美青年だっと言われてますね。
あと、産まれる前に主君の政宗が命を救ってくれた話と後室殿の物語ですか。
名君ですね✨‼️
将軍家から一門として三つ葉葵の家紋と松平の苗字に変更を勧められますが
自分を育ててくれた保科家への恩義で固辞し
朝廷から従三位左近衛中将の官位を賜りますが、
自分には恐れ多いと中将のみを賜り従三位は固辞しましたね。
本当に私欲の無い人物ですね。
三代藩主正容の時に三つ葉葵の家紋と松平の苗字を将軍家から賜り
会津松平家は将軍家の一門として御三家に次ぐ家として遇せれることになります。
@@丘みどり-b7u
綱吉もどうしても受け取ってほしいので
将軍からの上意(命令)という形にしたのではないでしょうかね。
越後騒動ですね。
綱吉の大老酒井忠清への
あてつけ的な意味合いも
あったのかもしれませんね。
家康は正之を預かった見性院の江戸城内にある屋敷を見性院に会いに頻繁に訪れていたそうなので、
家康公は正之と会った事があるかもしれませんね。
12代家慶から家定の時も
家慶は御台所の甥にあたる慶喜を13代にしたかったが周りに反対されて断念したという話もありますね。
良いかもしれませんね。
定信の孫板倉 勝静もおすすめです。
正之をはじめ江戸幕府の将軍後見人についてレポートも面白いかも?